動物に名前をつけて育ててから、殺して食べて「命の大切さを学ぶ授業について」

なんか話題になってたみたいなので、「動物に名前をつけて育ててから、殺して食べて『命の大切さ』を学ぶ授業」について語ってみたいと思います。

・「命の大切さ」とは何か
「命の大切さ」は主に人間を対象にしているので、ここでは人間の命の大切さに限定します。「命の大切さ」を説く目的は自殺や殺人の防止にあるからです。

価値の証明法は色々ありますが、その中に有用性(例えば「この車は時速300キロで走れる」)と稀少性(「このモデルの車は限定生産だ」)があります。
有用性で命の価値を測ると、利用価値がない場合は命に価値はない(生きていても仕方がない)ということになります。
「どんな命もどんな場合でも平等に尊い」という言説は、稀少性を基礎としています。

稀少性は以下のように細分化できます。
1.固有性
大抵の人間は固有名を持ち、他の人間と区別されます。それは「私」が固有名を知るある個人と他の人間は引き換えに出来ないことを意味します。なぜなら固有名をもつ個人は、「私」の心の中で固有の思い出と思い入れをもつからです。

例えば、「私」は友人Aと一緒に遊んだ記憶を持ち、それは友人Bや友人cとの思い出とは異なるものです。またAに対する気持ちも、他の人間に対するものとは異なるものです。「私」にとって、Aは他の人間と交換できる存在ではない、固有の価値をもつ存在です。

そして全ての人間は、「私」にとってのAのように、誰かと代えが効かない存在であるために、固有の価値を持ちます。

しかしこの論理には、欠陥があります。
まずこの論理では、「Aへの『私』の思い入れ」を価値の源泉とし、「Aが「私」にとって固有の価値がある」のAや「私」に万人があてはまることを前提にしていることです。他人へ思い入れを余り持たない「私」や、誰にも思われないAにとって、この論理は無意味です。
二つ目に、「私」は社会生活を送る上で、他人を個別にではなくカテゴライズして取り扱わなければなりません。そこには固有性はありません。例えば、「私」にとってコンビニの店員は誰でも一緒です。友人Aですら、友人という点においては、その他の友人たちと同じです。

2.一回性
一度死んだ人間は生き返りません。

3.困難さ
生を維持するためには、望む望まないに関わらず多くの生が必要です。例えば、「私」の大勢の祖先や今まで食べた食物です。そのような多くの生に支えられた生は、多くの生だけの価値があります。
但しこれは「命の大切さ」を前提としているため、一種の同語反復です。

結局稀少性で「命の大切さ」を測ろうとすると、「私」にとっての愛する誰かの固有性を担保にして、それを類推で広げるしかありません。
しかしこの論理を裏返すと、誰かにとって「私」が愛する人は非固有性でどうでも良い存在であることを理由に、万人が非固有な存在であるとなってしまいます。

・飼って殺して食べる授業について
この授業でも、「命の大切さ」を知るために上記の論理を前提にしていると考えられます。

1.名前を与えて育てる
まず、殺して食べるための動物に固有名を与えさせ、自ら育てることで思い入れを作らせます。このようにして、その動物(例えばブタのPちゃん)は「私」にとって固有の価値をもつ存在になります。
そして命あるわれわれは、「私」にとっての可愛いPちゃんのように、価値あるものであることを知ります。

2.殺して食べる

殺して食べる段になると、混乱が生じます。「私」にとって、スーパーに並ぶ食肉はどれも同じな固有性を持たないもので、それを可愛いPちゃんと等価に結ぶことができないからです。

ここで「私」は、スーパーの食肉とカテゴライズし固有性を無視していた物が、Pちゃんと同じだけの価値があったことを知ります。

実際に殺すことで、生の一回性を体感します。ここで、われわれの価値ある生ははかなく失われうることを知ります。

食べることによって、実は自分たちの生がスーパーの食肉を始めとする他の生によって支えられていることを体感します。「私」を支える膨大な他の生は、その一つ一つがPちゃんと同じだけの価値をもつものであり、それに支えられるわれわれは膨大な価値をもつはずです。

・本当に「命の大切さ」が学べるのか

上記に示したような、思考の過程は一種のモデルであり、本当に生徒がこの通りに学んでくれるとは限りません。

物議を呼ぶ箇所は、殺して食べるところです。ここでは、Pちゃんとスーパーの食肉が同一であると示し、「私」にとってのPちゃんの価値を根拠に、スーパーの食肉(を始めとする食べ物)の尊さ、さらにそれに支えられる我々の価値を示しています。
当然、Pちゃんへの思い入れが強い程この価値を実感できるはずです。

しかしこの論理を裏返すと恐ろしいことになります。かわいいPちゃんの価値は実はスーパーの食肉程度の価値しかないこと、つまり固有性の価値は容易く実用の価値にとって代わられうることを暴露しているからです。そして養豚場の大勢のPちゃんが、スーパーに並ぶ肉が、Pちゃんにはもともとそれだけの価値しかなかったことを示しています。「私」の思い入れは、最初から無価値だったのです。

ここで、「私」の思い入れを論拠とした「命の大切さ」の論理は反転します。もし「私」にとって大切だったPちゃんが食肉程度の価値しかないというのなら、Pちゃんと同じくらいに大切に思っている人間もその程度の価値しか実はなかったのです。

この裏の論理に気付いた生徒は、「人間の生の無価値さ」をPちゃんを通じて体感したはずです。Pちゃんのへの思い入れが強い程この反動も大きいはずです。

この裏の論理につながりうる危うさが、この授業が残虐だと非難される理由だと思います。